平成22年09月20日
「我が国のジャージーの歴史」

時代の要請で輸入・特性生かした飼育されず〜
 昭和55年3月に家畜登録団体中央協議会が発行した「家畜登録事業発達史」は、乳牛・和牛・軽種馬など協議会を構成する10団体の畜種について、それぞれの家畜改良と登録事業の発展について詳しく記述されている。わが国における家畜登録事業の歴史は、古く明治末期のジャージーとホルスタインに始まったといわれるが、今回は登録事業の始まりが最も早かったジャージー種について、どのような経緯で外国から導入され、登録事業が始められたのか、この発達史からお伝えしたい。
明治・・・文明開化とともに
 わが国では元来牛馬は農耕用という観念でしかなかったのが、乳を飲み、肉を食べるという畜産の考え方は明治の文明開化とともに外来した。当時の畜牛の改良の基礎は外国種の導入・模倣から出発し、政府の種畜供給機関の設置、西洋農業の技術の導入等の諸政策の実施と相まって、乳牛飼育は飲用を目的とした民間の搾乳業により始まった。
初のジャージー導入
 わが国にジャージーが初めて輸入されたのは、官営牧場である取香種畜場(のちに下総御料牧場と改称)であり、明治10年(1877年)に入った牝3頭・牡2頭であった。農商務省刊行の輸入種牛馬系統取調書によると、アメリカから購入したジャージー種牡牛マーマヂューク号は100ドル、同時に購入した牝・第3ヤング・チューリップ号及び第3オレンジ号の価格は、それぞれ150ドルと記載されている。
津田牧場
 当時は政府の勧農策に呼応して民間における牧畜熱が昂揚し、折からの国有林野の払下げ・貸付、林野の官民有区分が行われたこともあって、各地に牧場が開設されるようになった。明治10年に茨城・千葉県にまたがる広大な原野の払下げを受けた津田出は、明治18年にジャージー牝牛19頭、ジャージーとホルスタインの雑種牡牛1頭をホルスタイン牝牛5頭とともにアメリカから輸入した。しかしながら、当時輸入したジャージーは概ね不良であって、かつ結核病に罹るものが多く、乳質は優れているが、品性容姿は甚だ劣るものであったという。
神津牧場
 一方、長野県出身の神津邦太郎は、明治20年に洋式の大牧場として神津牧場を群馬県北甘楽郡西牧村(現・甘楽郡下仁田町)に創設した。明治22年にはバター製造を開始し、その品質の向上と製品の普及に努力する一方、その飼養牛の改良に意を注いだ。当初、神津牧場は種々の乳牛を放牧していたが、明治24年にアメリカ産のジャージー牝・牡2頭を購入したのを契機に、バター製造を主眼としてその飼養はジャージーが主体となっていき、さらに、明治38年にアメリカに渡り、当時の農商務省より委託された北米酪農業の調査に従う傍ら、各地の牧場を訪ね、ジャージー種牡牛4頭、牝牛20頭を購入。さらにカナダに赴いて、フレンチ・カナディアン種及びエアシャー種など総計45頭の大量の優秀な純粋種を輸入した。この中のジャージー種はいずれも当時世界的に名声を博した系統で、これによりわが国ジャージー改良の先鞭がつけられた。
東京愛光舎
ゼ アウルス クイーン号 昭和36.01.15生 185994AJCC B58 また、東京愛光舎主角倉賀道は明治36年、牝・牡各1頭のジャージーをアメリカから輸入した。明治40年には純粋牝・牡20頭をアメリカから再び輸入、さらに翌41年にみたびアメリカに渡り、アウル系の優秀な純粋牝・牡6頭を購入、愛光舎におけるジャージーの繁殖を行った。この中の1頭、ゼ・アウルス・クイーン号についてみると、初産で乳量7,292.2ポンド(約3,300`)、乳脂量442.7ポンド(約200`)を出しており、帝国ジェルシー種牛会報第2号には、「本牛はアウル系中出色の才物にして能く父母両牛の各特徴を継承し、ジェルシー種牝牛としては真に模範的典型を得たるものとす。其体格の発育円満にして各部の調和宜しき。其品位の優雅高尚にして自から尊貴の形貌を具へたる」と記載されている。角倉賀道は愛光舎牧場を明治32年東京府巣鴨に創設、次いで明治38年に埼玉県大宮に愛光舎大宮種牛牧場を作り、ホルスタイン種牛の大量輸入も同時に行った。このように明治末期には東京においても次第に乳牛を飼養するものが増え、搾乳して市民に販売する牛乳搾取業の方が多く存在したと考えられる。
 なお、北海道にジャージーが入ったのは明治31年、宇都宮仙太郎牧場にアメリカ産の牝・牡各1頭が初めてであったが、その後、明治40年に自らアメリカに渡り、牝5頭を輸入した。
帝国ジャルシー協会の創設
 外国種の導入に始まったわが国の畜産も明治後期(明治33年〜44年)を迎え、政府の畜産改良の具体的な政策が進められ、畜牛改良方針の確立、種牛牧場官制の公布、種牡牛検査の施行あるいは地方種畜場規程・種畜払下規程の制定等が次々と実施された。さらに具体的奨励方針として共進会の開催奨励、畜産団体の活動促進等が取り上げられた。
 このような背景の中、明治41年(1908年)に日本帝国ジェルシー種牛協会が他の登録団体に先駆けて発足をみた。これは、ジャージー種の改良発達を図り、会員相互の利益を増進し、海外ジャージークラブとの連絡を保ち、世界的協同一致の歩調をもって、本種牛の進化を発揮することを目的として設立されたもので、明治41年4月3日、東京府日本橋区偕楽園において開かれた発起会では、まず規約と純粋ジェルシー種牛登録規則を協議決定し、理事長に東京帝国大学農科大学教授獣医学博士津野慶太郎を選出、理事として東京愛光舎主角倉賀道(庶務)、及び東京阪川乳牛店主阪川霽(会計)を選んだ。また、このとき議決された事項は、東京府畜産会春期品評会に同会の趣旨を広告し、かつ品評会に出陳の優等なジャージー種牛に金銀賞牌を贈与すること、ただしこの費用は一切を合わせ金150円以内をもって支出すること等であった。
 日本帝国ジェルシー種牛協会時代の10年間に登録した頭数は、牡牛が73頭、牝牛が213頭で、牝牛の県別頭数内訳は、東京105頭、長野89頭、ほか7道県19頭、このうち東京・角倉賀道・正道が75頭、長野・神津邦太郎が71頭の登録を行った。(登録団体の変遷
中央畜産会発足
 また、地方の畜産組合連合会の組織の上にあって、その活動を取り纏め、畜産の指導奨励を行うものとして、大正4年7月に社団法人中央畜産会が発足した。中央畜産会の事業としては、乳牛の登録事業、講演、講習、出版等による畜産指導事業のほか、博覧会の開催などが取り上げられ、日本帝国ジェルシー種牛協会の全事業は中央畜産会の血統登録部へ併合された。さらに、戦時下の登録事業は中央畜産会の継承団体である帝国畜産会に昭和16年に引き継がれ、さらに別図のとおり団体名は変更したが、登録はそのまま継承された。大正7年8月から昭和23年7月までの登録頭数は、牡牛が78頭、牝牛が233頭であった。
昭和・・・第2次大戦後の大量導入
 一方、第2次世界大戦後の被占領下の低迷期を迎え、主要食糧の増産と農産物の統制が強力に進められ、その中で農業の有畜化が取り上げられ、わが国畜産再建の途が開かれることになった。また、当時の連合軍の総司令部(GHQ)の指令により、全国農業会は解体され、乳用牛の登録事業については日本ホルスタイン登録協会の創立を見て引き継がれた。
 この当時の飼料事情の悪化は、都市搾乳業から農地に根ざす農家酪農へと進み、乳牛頭数も次第に回復を見せ、昭和27年には酪農は戦前の水準まで回復をみせてきた。また一方、国民の体位の向上を図ることを目的とし、政府は第2次畜産振興10カ年計画(昭和27年3月)を樹立した。この計画は、乳牛の増殖に重点を置き、学童給食用の牛乳の国内充足と国民の食生活の向上を図るため、十年後に乳牛を百万頭に増やし、1千万石の牛乳を昭和36年度を目標として実現するいわゆる「10,100,1000計画」である。しかし、この計画実現のためには、国内産乳牛のみでの増頭は困難であって、計画数の約1割に当たる10万頭は国外から輸入した資源により増殖させる必要があり、さらに大量の濃厚飼料を輸入するに足る外貨保有量がなく、草地酪農に重点を置かざるを得ない状況であった。
ジャージー種の選定
 そこで関係省庁において種々検討が行われ、結論としてはホルスタインの輸入は困難であり、乳牛資源、価格及び海上輸送能力等を勘案すれば、アメリカ、ニュージーランド及びオーストラリアにおけるジャージーが条件に最も合致した。さらに、ジャージーは今後のわが国の酪農振興上、草資源を利用した草地酪農の推進を図るためには、飼料の利用効率が高く放牧性に優れており、かつ気候風土の適応性が強く、扱いやすく、適地に集団的に飼うには最適であるということも大きな理由であった。
導入地域選定
 そこで、政府はジャージー導入地域選定及び事業実施基準を規制した「集約酪農地域建設要領」を制定、さらに物品の無償貸付及び贈与等に関する法律ともいえる「乳用雌牛の貸付及び贈与等に関する省令」を制定した。これにより昭和28年からジャージーの輸入が開始されることになったが、ジャージーの国有貸付事業は、日高、根釧、十和田、岩手山麓、浅間八ヶ岳(山梨・長野)、富士、美作及び霧島の9道県、8地区に4,658頭が貸し付けられるにとどまった。このため、昭和31年度後期以降は農地開発機械公団のパイロットファーム開発事業の実行に伴う開発事業と併せ、ジャージーの輸入外貨資金を国際復興開発銀行(世銀)の借款により賄う機械公団輸入売却方式(長期低利融資)に切り換えられ、オーストラリアからの購入が行われた。その結果、前記の地区に秋田・北部鳥海、佐賀・天山、熊本・阿蘇を加え、12道県に12,434頭ものジャージーが35年度までの8年間に輸入され、配分された。
日本ジャージー登録協会の設立
 政府のジャージーの輸入による国内飼養頭数の漸増に伴い、これに対応した改良について種々検討の必要が迫られてきたが、昭和31年8月10日、日本ジャージー登録協会の創立総会が開催された。これにより、従来日本ホルスタイン登録協会において暫定的に行われていたジャージー種牛の血統登録並びにこれに付随した業務を同会より継承することとし、ただし少額の経費をもって確実な登録を行うため、登録に関する一切の業務は日本ホルスタイン登録協会に委託して行うことになり、今日に至っている。
泌乳能力
 ところで、政府が大量に導入したジャージーの泌乳能力はどの程度のものであったのだろうか。
集団的に導入された地域のほとんどにおいて、酪農経験のある地域は極めて少なく、ジャージーに対する知識・経験が十分でなかったこと、また、ジャージーの特性を活かす草地の獲得、放牧の仕方など十分な手が打たれていなかったこと等により、輸入当時の能力は低い評価を受けた。 
頭数の現状
 また、昭和38年、39年当時約2万8千頭まで増加したジャージーも昭和49年には1万頭を切り、昭和61年には3,858頭にまで減少していた。わが国の経済が鰻登りの如く上昇し、酪農業界全体も右肩上がりに伸びていたにも拘わらずジャージー種の減少が続いた背景としては、やはりホルスタイン種に比べて乳量が少なかったことなど上記の理由に加え、乳価の建て方や子牛の流通、牛肉の脂肪の色など幾つかの理由が考えられるが、ジャージー種の価値が見直されたのは戦後の大量導入以来40年、昭和から平成に年号が代わる頃まで待たなければならなかった。 





第1回全日本ジャージー共進会
(昭和43年10月10〜13日)
岡山県川上村、出品頭数100頭
経産名誉賞:ヌガユール タンゼル
岡山県・進 一出品
 



第2回全日本ジャージー共進会
(昭和59年9月14〜16日)
岡山県川上村、出品頭数60頭
経産名誉賞:サンバレー マイルストン サニー クイーン
秋田県・土田 雄一出品
 



第3回全日本ジャージー共進会
(昭和12年11月2〜5日)
岡山県灘埼町、出品頭数60頭
経産名誉賞:マジック チーフ ハイランド
長野県・前田 勉出品



第4回全日本ジャージー共進会
(平成17年11月3〜6日)
栃木県壬生町、出品頭数60頭
経産名誉賞:オセオラ リメイク ブリガデイアー
岡山県・美甘 正平出品

平成22年09月20日
「検定成績優秀記録牛F偏差値上位牛」

都府県22年8月日証明分〜
 





(社団法人)日本ホルスタイン登録協会
The Holstein Cattle Association of Japan